松山の学校と道後温泉
本州から四国にはいるには今はいろいろなルー
トがあります。 JRで瀬戸大橋を渡りました。
感激しました。小学1年で四国から引き上げて
きたときに貨物列車にのってきたときのフェリー
の灯りは記憶しています。
引き上げは子供心に大変なものだったと思いま
すが、冒険でもありました。 今回はボーとして
たら松山につきました。駅前に道後温泉行き
電車が走っています。
約20分で道後温泉駅につきます。路上電車
なんですが、この駅は立派なものです。
駅前の広場は記念になりそうなものが... カラクリ時計にボッチャン電車オリジナルに..
足湯に ごちゃごちゃと
オルゴールの大きいものと思えばいいか
これ足湯 座って足を温泉につける、、無料なり。 歩いて迷わず道後温泉本館。。。国の重要文化
財ですぞ
明治27年竣工。330円から1500円までです。
部屋にあがって浴衣に着替え、外を見ると... いってみればテラス風というか 漱石の部屋です。。
「『天に則り私を去る』と訓み.天は自然である,
自然に従うて,私,即ち小主観小技巧を去れと
いふ意で,文章はあくまで自然なれ,天真流露
なれ,といふ意である.」と漱石の文章読本に
あるそうです。
温泉についてはここをみてください。私の記憶で
は砂利が足の下にあったと思って、それを期待
していったら、そのようなものは存在しなかった。
お茶をあわてて飲んでから駅の方に戻ると子規
記念館というのがあり、そして公園になっている。
なかなかきれいな道後公園がある。そして詩吟
が流れてきた。おうこれぞニッポンと思いしばし
聞き惚れた。最初テープかと思ったが、この
木陰で杖をついた人物がいた。
ややヒンヤリした空気に梅の花が匂う。 ここから駅はすぐで、我が家のあったといわれる
上一万まで電車でそれほどかからない。歩くこと
も不可能ではないのではないか。
今回松山まできたのは自分が終戦という状況で
小学校にはいった土地であり、髭の祖父との記
憶がある松山を訪れみてみたいとの思いにから
れたからなのです。まず祖父村上作重郎が若い
頃に校長先生であったという松山市立素鵞小
学校
の前に立ちました。
教頭先生に連絡をしておいた。生徒に職員室を
聞くと案内してくれた。すごく礼儀ただしいのが
印象的です。
校長先生が会われますということで、少々緊張し
てまってると、外人女性がいる。読んでるのは
日本の本。声をかけようとしたところで、どうぞ
といわれ校長室へ。考えてみると校長室などは
いったことがない。ボッチャン団子とお茶と用意
された資料をいただきました。

初代校長は明治23年(1890年)の創立から
26年まで、村上作重郎校長は26年6月3日
から29年7月2日まで就任。その間の主要
事項は、26年天皇皇后両陛下御真影奉戴
式、27年両陛下ご成婚25周年祝賀式。
明治20年4月小坂尋常小学校が発足。学校の
所在地は、現素鵞小学校の体育館のあるあたり
といわれる。明治23年3月合併して素鵞尋常
小学校が創立された。先生4人、生徒は150〜
160人いたという。教科は読み方、算術、唱歌、
習字、体操で、石版、石筆で勉強したとある。
村上作重郎先生は確かに当校の二代目校長で
すといわれた。ただし、写真も詳細も不明との
こと。この写真は古い資料からだが、明確な年月
は不明。
これも後のもので校長一覧表にはだされている
が写真はないということ。写真の送付を約束。
ちなみに米人女性は米国ミシガンから研修生で
紹介していただくとのことだったが、すでに帰宅
されていた。先生には色紙をいただきました。

中心街には立派なアーケードがある。日本は
どこも自転車が多い。実によく乗りこなしている。
市内のソーメン屋さんで夕食。ソーメンが美味
しい。四国は讃岐うどんもいいが、ここのソーメン
も細いのに腰があって美味しい。
ここは東雲小学校。ここで私は小学校に入
学した。門が二つある。ここも生徒に聞くと
礼儀正しくきちんと案内してくれる。

その当時のことは次のように記されている。

昭和20年 空襲激しく1,2年は地域的に
分散授業をなす。

昭和20年7月26日午後10時20分頃空襲
により校舎全焼
7月27日持田町若宮神社を東雲小学校本部
とする。

つまり松山が全市空襲で焼け野が原になった
翌日に臨時本部がつくられていたのだ。

生徒に職員室の場所を教えてもらい入り口を
はいろうとしたら、女性がいてレフトといわれた。
あれこのひと私を外人だと思ってるぞ。まあ
いいかと教頭先生と約束がしてあったので案内
を日本語で請うと、部屋に案内された。そして、
先ほどの女性が現れ私が校長ですといわれた。
慌てました。とてもいい先生でした。
目的を説明すると、校史が張り出されているのを
見せていただいた。

昭和20年7月の松山大空襲で全焼戦災(校舎
全焼)その後旧城北練兵場跡に校地移転とある。
入学したとき校舎がなくて、お寺だったと記憶し
てる。そして廊下の雑巾がけをしたのを覚えてる。
お会いする前にも生徒が熱心にお掃除をしてい
た。先生にそのことを伝えると当校の伝統なん
でしょうねと笑っておられた。 


終戦時丁度6歳になったばかりだった。松山の
空襲をまぬがれたということだろうか。畳の上で
天井をみて戦争は終わったんだと思ったのを
記憶している。空が真っ赤に焼け、母親の肩の
上に乗って焼け落ちる建物も記憶している。
あれは多分東京の空襲だったのだろう。焼け
野原を歩き焼夷弾の残骸を探して歩いた。
今でも車のガソリンの匂いをかぐと焼夷弾の
匂いを思い出す。松山はそれでも自然に満ちて
いたのではないか。朝露が葉のうえにたまり、
トンボを追ったことも記憶にある。あの校長先生
をしていたという祖父の記憶も松山だ。ご飯は
100回噛みなさいといわれたのを思い出す。
学校中を案内していたぢた。どこも清潔。 先生は本当によく子供たちに声をかけられる。 ふと小学校で砂場で夢中になり始業ベルに気が
つかず遊んでいたときに、先生がきて完成させる
まで待ってくれたことを思い出した。
野球の千葉茂が卒業生で訪問してくれることが
あるそうだ。
先生に感謝してすぐそばに松山城へのリフト口が
あった。
松山城までリフトまたはケーブルだと一気にたどり
つく。展望がよく、紅白の梅がとてもきれい。

丁度松山を全貌できる場所にお城があるのでよく
わかる。
紅梅もいいが、白梅と並んでると魅力が増す。
よい香りがする。
松山はどこでも漱石。漱石ゆかりのマドンナ姿で
写真をとってくれる。ボランテアから選ばれるそうだ。
最後に済美高等女学校は土曜日になってしまい
外からみるだけであきらめました。
近づいてみると町中の存在する学校のようで、」
輪郭がよくわかりません。それと中にはいるわけ
にもいかず周辺をまわったdけで終わってしまい
ました。
地元のタクシーの運転手も元女子校であれだけ、
有名になるには力の入れ方も違うのだろうと
いっていました。松山は魚も美味しくよいところ
ですね。